前回の記事で、昨近、人口に膾炙している「多様性」という観念は、人々を分断統治するために流布せしめられているイデオロギーではないかと語った。個人の主観的自己愛を尊重する耳に心地よいこの言葉が、実は個人の自由をバーチャル世界の主観的な自己愛空間のうちに閉鎖させ、人間間の真の連帯や結束を阻み、社会問題の本当の解決を困難にする概念装置とも言えるのではないかというのが、当方の見立てであった。
その思いをさらに最近強めている。「リベラル帝国主義」なる言葉が近年に聞かれるようになってきたが(例えばR.クーパー『国家の崩壊―新リベラル帝国主義と世界秩序』日本経済新聞社、2008年)、もともと「多様性」を原理としたのは広大で強力な帝国主義的政治秩序であったといえよう。多様な民族や地域文化圏を包摂しながらも、そこに一律の基本的な文化的・法的な信念や規範のセットを賦課してゆくことが、帝国主義に本質的に伴うように思われる。そのようにすることで、帝国内の人やモノや情報の流通を円滑にし、全体のパフォーマンスを高めると共に、帝国の支配者は利益を得るという構造が存在するように思われる(つまり昨近の「リベラル帝国主義」は一定の「リベラルな」信念をグローバルに賦課し、反対者には「偏見の持ち主」「差別主義者」などのレッテル貼りをして沈黙させようとするものと言えないか―それは本来の政治的リベラリズムとは名称は同じながら真逆の方向性のものである)。
これに対して、古代ギリシアのポリスや、近代の国民国家は成員間の「共通性」ということを基本原理にしていたように思う(それは各人の「違い」の根底にある「共通性」である)。アリストテレスが『政治学』で「善悪正不正の知識」の共有が人間の社会生活を可能にすると喝破していたように、道徳的信念の共有が家庭や国家の成立を可能にするものと考えられていたわけである(このアリストテレスの議論は近代の仮想的な社会契約の議論よりもよほど説得的であると思われるが)。信念の共有により、社会や国家が成立し、またそのパフォーマンスを発揮できるとするこうした方向性は、近年の「多様性」言説の広まりにより危殆に瀕していると思われる(「選択的夫婦別姓」なども単に利便性の問題ではなく、家庭という連帯の単位を解体したいがための何ものかであると勘繰りたくなるが)。
ごく最近の日本でのオリンピック開催強行や、ワクチン接種の半強制などに違和感を感じている人も多いと思われるが、それらは、こうした「リベラル帝国主義」の動きと連動したものと理解すると謎解きが出来るようにも思われる。哲学者ハバーマスはかつて「後期資本主義社会」における「システムによる生活世界の植民地化」を語ったが、グローバルな「リベラル帝国主義」と一体化したグローバル資本主義による、国民的なもの、地域的なものの、さらには庶民の「常識」の「植民地化」が現在激しく進行しつつあるように思われるのである。
こうした状況からすると、今後、①反グローバリズムを掲げるナショナリズムや、②反資本主義を掲げるマルクス主義、③反「リベラリズム」を掲げる保守主義が勢力を伸長させるようにも思われる(今の日本の政局でもある程度これが問題になっているように思われる―また「リベラリズム」が括弧に入っているのは本来の政治的リベラリズムと区別するためである)。これら三者はそれぞれ方向性が異なり、それぞれに対する当方の評価も異なるものである(この区分で言えば当方は③の保守主義ということになろうし、グローバルとナショナルの調和の取れた、また階層間の連帯のある資本主義体制は必要と考える)。またそれらの流布は、いかに多くの人が「リベラリズム」とグローバリズムの洗脳・呪縛から解かれるかという事を条件としているようにも思われる。大手メディアの、ナショナリストと思しきトランプ氏への集中的なバッシングを顧みても、大手メディアや教育や行政の世界のエリートがグローバルな「リベラリズム」(「リベラル帝国主義」)の担い手であり、またジョージ・ソロス氏の「オープンソサエティ財団」のように資金援助を行う勢力も存在することからして、当面は現状が続きそうではあるが、中長期的にはそうした新たな動きが強まりそうである。
「新世界秩序」なる観念がいわゆる陰謀論の世界では流布しているが、それが仕組まれた陰謀であるのか、様々の出来事の結果としての偶然の連関が生み出している何ものであるのかは区別せねばならないだろうが、確かにそのような陰謀論のような分かり易いストーリ化が説得力を持ちうるのも事実であろう。しかし、拙速な陰謀論は今起きていることを正確に説得力を持って捉えることをかえって妨げることになる可能性も孕んでいるようにも思われるので、その点は慎重であるべきだろう(「陰謀論」の流布は公衆の視角を微妙にずらすことで本当の問題を隠ぺいするためにも行われうるだろう)。
いずれにせよ、現在必要なのは、個人間の違い、「多様性」の根底にある人間としての、人類としての《共通性》《普遍性》を再発見することであるように思われる(そもそも「世界人権宣言」に見出されるような「基本的人権」は人類の間の共通性、人間本性の普遍性に立脚して成立しているものである)。そのようにすることで、人間は連帯しつつ貧困や社会的格差、エネルギー・環境問題などといった基本的な社会問題を真に解決することが出来るのではなかろうか。オリンピック開催強行を止められなかったのは当方も忸怩たる思いであるが、この出来事はいかに現代の日本では庶民が連帯することが難しいか、グローバルな(近年の悪しき意味での「リベラリズム」という)社会権力に対していかに脆弱かを端的に示したようにも思う。